Monday June 14, 2004
The Guardian


オーストラリアの火の玉小僧が長い沈黙を破って語る。テニス界を運営する組織との継続中の闘いについて、ドラッグへの懸念について、そしてウィンブルドン再優勝への悲願について。

 

「昔アデレードで」とレイトン・ヒューイットは言った。23歳のコート上のストリートファイターがこんな内省的な顔を見せるのは珍しい。「子供のころに夢見てたのは世界1位になること、グランドスラムで優勝すること、オーストラリアの代表としてデビスカップで勝つこと」。彼は3つの夢にあわせて右手の親指と2本の指を1本ずつ立て、物思いにふけるような面持ちで3本の指を眺めたあと、ぱっと掌に戻した。


「幸いにも、デビューした年の1999年にデビスカップで優勝した。2001年には全米で初めてのグランドスラムを獲り、その年末に世界1位になった。20歳ですべての夢がかなっちゃったんだ」


 ヒューイットは意味ありげに言葉を切った。ことさら言い立てる必要もない輝かしい記録だ。男子テニス界の頂点に史上最年少で到達したプレーヤーとして、彼は2001年11月から2003年4月まで、75週にわたって世界ランクの最高位にいた。そのあいだに2002年のウィンブルドン優勝があり、そこでティム・ヘンマンを、かつてピート・サンプラスがやった以上に完膚なきまでに叩きつぶした。ヒューイットの勝利への渇望と、自分より大柄で力のある相手に発揮する純然たる意志の力は、抑止不可能のように見えた。思っていることをはっきり口に出す彼は、アンドレ・アガシ以降、面白みのないツアーの中で最も異彩を放つ選手でもあった。それとは対照的なキム・クライシュテルスとの誠実で落ち着いた交際も、ちょうど彼女が女子テニス界の頂点に近づいていたこともあって、さらに世間の注目をかきたてた。


 それから15か月。彼の揺るぎないガッツとコート外での嬉しい幸せはともかくとして、それ以上にさまざまなトラブルと争いがあった。そして彼の周囲ははるかに複雑に、はるかに興味深くなった。君は年齢とともに興味深い人物になっていくようだと言われて、ヒューイットは心得顔で笑う。彼は昨年ランキングを16位も落とし、ほとんど知られていない選手たちに混じって世界17位で2003年を終えた。とはいえ、トップへの返り咲きをめざす彼の現在の格闘と、男子プロテニスの運営組織ATPに対する係争中の訴訟には、やはり注目せずにいられない。


 来週の月曜から始まるウィンブルドンに向けて、ヒューイットはすでにちょっとした波に乗っている。 まず今月の初め、彼は最も苦手だとするクレーの全仏でQFに進出した。ヘンマンのSF進出という信じられない快挙に隠れてしまったが、これはたいした成績である。先週のクイーンズでは、疲労のたまったヘンマンが初戦で敗退した一方、ヒューイットはベスト4まで順調に勝ち進んだところでアンディ・ロディックに敗れた。ランクは世界8位まで戻っている。これまで以上にいい結果を出して批判者を見返してやろうと思っているのでは、という質問にヒューイットはかぶりを振った。「そういうことは考えていない。いまも誰にも負けてないという自信をもってコートに出ている。べつに誰かの見方が間違ってると証明する必要なんかないよ。自分がどれだけのことを達成したか知ってるし、自分でどれだけいいプレーができるかも知っている」


 だが昨年のこの時期に、不調は始まった。全仏では早々に敗退。無名のトミー・ロブレドに対して6−4、6−1、3−0とリードしておきながら、普通なら容赦なく利用できたはずの優位をふいにしてしまった。彼のかつての憧れの選手、パット・キャッシュはヒューイットについてこう言った。「彼は多くの試合をスピードと決意とガッツで勝っている」。つまり、それらの資質がなければ「平均的なプレーヤー」にすぎないということだ。


 ヒューイットはコーチのジェイソン・ストルテンバーグと別れた。「ストレスでくたくたになっている」という元コーチの言葉をよそに、彼はウィンブルドンの開幕試合を戦いにセンターコートに出ていった。相手は予選を勝ち上がってきたクロアチアの無名選手、2m10cmのイボ・カルロビッチだった。試合の序盤、彼はまさしくディフェンディングチャンピオンにふさわしいプレーをした。第1セットを6−1であっさり取り、第2セットを締めようとしたところで、急に彼の「車輪」――サンプラスがテニス界で最高と称したそれが、ふっと止まった。誇り高いチャンピオンにとって屈辱的な敗戦だった。


 外野から見れば、キャッシュは正しかった、ヒューイットの限界は見抜かれていたと思うのは簡単だった。あるいは別のシナリオも容易に想像された。この世界での夢をすべてかなえてしまったヒューイットは、それまで彼を無敵にしていた闘争心を失ってしまったのだろう。そもそも、ああした激しい決意がどこまで持続できるものだろうか?――だが真実は、やはりもっと複雑だった。


 ヒューイットは意識的にATPツアーから身を引いた。彼が昨年ツアーを何ヵ月も休んだのはデビスカップに集中したかったから、そして足の小さな故障を治したかったからだということであり、いまもそう主張しているが、彼が運営組織を軽蔑していたのは明白だった。2002年にテレビのインタビューを受けなかったからという理由でATPから10万ドルの罰金を課されそうになったことを受けて――のちに罰金は2万ドルに減額されたが――昨年ヒューイットはオーストラリアでATPに対し150万ドルの訴訟を起こさせている。


「彼らの言い分はたくさんのでたらめに基づいていた。あのテレビインタビューのほかにも、いろんなことがあったのさ。それを表に出す必要がある」


 たとえば1999年に、ATPはマイアミのリプトン大会のワイルドカードを保留することで彼を「脅そう」としたという。「前日に健康診断を受けさせられることになった。トーナメントディレクターはすでにワイルドカードをくれていたのに、その健康診断を受けなければワイルドカードを引っこめると言ったのさ」


「脅し」というのは若さゆえの怒りから来た非難だろうが、彼には長年の不満もあるようだ。「僕は(ATPに)妥協したくない。おカネの問題じゃないんだ。彼らにはいくつかの落ち度があったと思うから、それについて謝ってもらいたい」。彼の闘いは当分おさまりそうにない。「長い闘いになるだろう」と彼は冷ややかに笑う。「いろいろ不透明な問題なんでね」


 今年の初めにヒューイットがツアーに戻ってきたとき、オーストラリアで、その不透明さがまた少し濃くなった。グレッグ・ルゼドスキーがナンドロロン検査で陽性反応を示していたことが公表されたのだ。最終的に彼の無実は証明されたが、ATPが自らのプレイヤーに汚染されたサプリメントを配っていたかもしれないことがまたしても明らかになった。「この数年間に出てきた数々の問題を思えば、変な話さ。ルゼドスキーの前にも、コリアやチェラなど、多くの選手が言ってきただろう。タブレットが汚染されてたって。そのうちのいくつかはATPから渡されたものなんだ。どう考えればいいのかまったくわからない」


「第5セットになったときに第1セットより元気がよさそうな選手がいるのを見ると、テニスがどれだけクリーンなのかいささか疑問に思わざるを得ない。誰だってそういう考えが頭をよぎると思う――普通の人間ならね。ATPのサプリメントに関して詳しいことは知らない。ただ、何か変なことが進んでいるということだけはわかる」


 ヒューイットは少なくとも自分のゲームには絶対の信頼を置いている。彼は昨年、デビスカップの準決勝で現ナンバーワンのウィンブルドン・チャンプ、スイスのロジャー・フェデラーに記念すべき勝利を収め、決勝でスペインのフアン・カルロス・フェレーロに勝ってオーストラリアの優勝に貢献した。フェデラーに対しては2セットダウン、第3セット3−5からの逆転だった。デビスカップ監督のジョン・フィッツジェラルドは言った。「彼が今日やったことを私は生涯忘れないだろう」


「あれは過去最高に近いプレーだった」
とヒューイットも言う。「フェデラーはすばらしい試合運びをしていたが、僕ももっと攻撃的に打ち、あきらめずにボールを追いかけるようにした。そして第五セットで追い抜けた」


 フェデラーは全豪で雪辱を果たした。ジョン・マッケンローが「これまで見てきた中で最も才能あるプレーヤー」と評しているのも納得の驚異的なテニスでヒューイットを破ったのだ。そうした賛辞にヒューイットは気のない様子で肩をすくめるが、そうするだけの資格はあるだろう。彼はフェデラーに対して7勝4敗と勝ち越している。「全豪のときは脱帽するしかなかった――『too good, mate』だよ。だが、彼がデビスカップを忘れることはないだろう」


 フェデラーは世界最高のプレイヤーかという質問に対して、ヒューイットの答えは面白いぐらい明瞭だ。「そりゃ1位だもの。だけど、サフィンがのってるときも同じように無敵だ。アンディ・ロディックにはあの豪速サーブがある。少しでも調子が悪ければ、どの選手でも負かされる可能性はいくらでもある」


 ヘンマンに対して7戦全勝であるにもかかわらず、ヒューイットは「タイガー・ティム」についてこれ以上望めないほどの礼儀を見せる。パリで驚異の快進撃を見せたヘンマンは、これからさらに大きな期待を担うことになる。ヒューイットも言うように、全仏は「四大大会の中で最も過酷」だ。それはウィンブルドンの熱狂的な雰囲気の中で疲労がたまっていくにつれ、ヘンマンのあだとなるかもしれない。


「ティムはウィンブルドンで実によくやっているけど、それはたいへんなことだ。彼の心情はよくわかる。僕も何年も全豪の優勝をめざしてきたから――つねにプレッシャーがのしかかるんだ。だけど、メルボルンで決して勝てない理由はないと思ってる。ティムもウィンブルドンで優勝できると思ってやっているはずだよ」


 実際に優勝してから、ヒューイットのウィンブルドンへの情熱はさらに深まった。「行けば行くほど好きになる。最初は変な感じだった。テレビで見てるんじゃわからないけど、独特のオーラがあるんだ。とくにあのセンターコートへ向かう通路に、過去のチャンピオンの名前がずらりと並んでるのを見ると、えもいわれぬ感じに包まれる。最初はなかなか勝てなかった。芝で戦うには体が小さすぎるとか、もっとサーブ&ボレーを取り入れるべきだとか、いろいろ言われたよ。しばらくして、こう決めた。『いいさ、自分のゲームをやって、それを成功させてやる』」


「ウィンブルドンは2002年の大きな目標となったけど、1回戦で厳しい相手を引いてしまった。ヨナス・ビョルクマンは前週にノッティンガムで優勝したところだった。だがそこをストレートセットで切り抜けると、同時に他の有力選手の何人かが脱落した。そしてセミファイナルでヘンマンと当たった。ティムも同意すると思うけど、あそこで僕に勝っていたら彼は圧倒的な優勝候補になっていただろう。だけど僕は負けるとは思わなかった」


 1年経って、ヒューイットは悲惨に終わったタイトル防衛についても冷静に振り返れるようになっていた。「彼のことは聞いていた」「彼が練習しているところも見た。準備のために妹のボーイフレンドのヨアキム・ヨハンソンにも相手をしてもらった。彼も同じようなビッグサーバーなのでね。第2セットの途中まではきれいにリターンできていた。自分のセットポイントで、2セットアップにできるところまでいっていた。そのチャンスをつかめなかったところで、試合の流れが変わった。相手はすっかり自信をもってプレーするようになり、もうブレークチャンスがほとんど来なかった。最悪だった」


「それでも大会の最後まで会場にいた。キムがセミファイナルに進出していて、ダブルスでも勝ち残っていたから。それで結局、ロンドンで男子ファイナルをテレビで見た。マーク・フィリポーシスが出ていなかったら見なかったよ。面白くもなんともなかった」


 今年はそのような拷問はない。故障中のクライシュテルスは選手としてではなく観客として、そしてヒューイットの婚約者としてウィンブルドンに来る。プロポーズは去年のクリスマスの直前だった。「シドニー湾の船上でね。彼女がイエスと言ってくれるのはわかっていたけど、とても嬉しかった」


 ヒューイットの誠実さと予想外の温かさは、彼の言葉の端々に、それこそ自分のテニスの問題点を語るときにも(「僕のサーブじゃなかなか楽にポイントが取れないんだよね」)、アデレード・クロウズとオーストラリアンフットボールのすばらしさを称えるときにも(「世界最高のスポーツだよ」)表れていたが、彼が最もかわいらしく見えるのは、クライシュテルスについて語るときだ。「初めてキムとしゃべったのは2000年の全豪だった。彼女を追いかけまわしていたように聞こえると困るんだけど、本当に好きだったんだ。全豪のときにたまたまジュニア時代から知りあいだった女の子がいっしょの席にいて。で、話し始めるようになり――まあ、そういうわけだよ」


 ヒューイットはとんでもなく豪勢なアデレードの新居のことを面白おかしく話してくれた――中には映画館があって、外には滝がある――が、そのあと真面目な顔でこう強調した。「家では二人でゆっくりできればそれでいいんだ。もう少しプライバシーがあるといいんだけど、オーストラリア全土で知られているのはともかく、ベルギーでは大ニュースになっちゃうのさ! 僕らはよくいる有名カップルのように派手に取り上げてもらいたくはない。ごく普通でいたい。注目を浴びるのはコートに出たときだけで充分なはずだろ。そこが僕らが世間の人たちに見てもらう場所なんだ。あとは僕たちだけのものなんだよ」

原文